いつも市民派ずっと無党派


by tanemaki_azumino

議員になろうとしたきっかけは

 1985年頃の私、5歳と2歳の2児の子持ちで、共働き。当時の穂高町の保育園は幼稚園並みの保育時間で、朝8:30から始まって午後3時には帰ってきてしまう。夕方までは私の母がめんどうをみてくれましたが、勤めの帰りが夜の8時9時になることも多いので(当時私は小学校の教員。長野県の小中学校では、とにかく残業が多い)一日おきに保育ママさんをお願いし、何とかしのいでいました。

 これでは保育園として機能していないに等しい。「この町に住む母親は働くな」ということかと腹立たしい思いを懐きつつも、日々の忙しさに追われて町や県の保育行政に窮状を伝えることすらできないでいました。 それでも、延長保育の体制が整わない中で、保育士さんや園長さんの善意に助けられ、また隣人の好意に支えられ、そして何より子どもの成長に元気づけられながら、その日その日を辛うじて乗り切り、仕事を続けていました。

 しかし、こんな環境では仕事を続けられるはずもなく、11年勤めたところで退職。家と学校を往復していただけの頃とちがって、毎日この町に暮らしてみると様々な課題が見えてきました。保育の問題なら、自分の経験をふまえて訴える事ができると思い、仲間を募り保育時間の延長や保育内容の改善を求める運動を始めました。3年余りかけて、穂高町の保育園の保育時間を”保育所”並にする事ができました。

 その間、町の福祉課へ何度足を運んだ事か。「町は県にお伺いを立てつつ」「県は国の方針に従いつつ」でしか事が進まない現実を目の当たりにしました。目の前に延長保育が無くて困っている人がいるということよりも、国から「延長保育をしないのは問題ですよ」と指導されなければ動かない保育行政、これで住みやすい町になるはずがないと痛感しました。

 その後、穂高中学校の2校化を求める運動や、給食費徴収を口座振替にする運動を進める中ではっきりしてきたことは、町は住民参加の町づくりと言いながら、実際には審議会で意見を聞くだけだったり、重要な決定には関わらないようになっていたりで、本当の意味での住民自治には程遠いものだという事でした。

 私たちの町のことは私たちが決めたい、政治を私たち住民の手に取り戻したい、そんな気持ちが私を動かしたのです
by tanemaki_azumino | 2010-02-11 21:22 | ◆政治信条